「先達」とは、僧侶でも神官でもない、聖職に就くための修行をすることのない「普通の人(凡夫)」がご神仏に手を合わせる場を作ることで「普通の人(凡夫)」とご神仏を繋ぐ仕事をされている方のことです。
家系として継がれている仕事で、家系のなかでも、先達業に必要な「(異次元を見聞きする)力」を生まれつき備えられていて、もちろん、先達になるための修行を相当積まれた方が就くことのできる仕事、といわれます。
熊野詣にいくと、それぞれのお社に参詣曼荼羅があります。そこには、「先達」といわれる人が神仏へのお参り案内をし、熊野詣をする貴族や庶民の様子と、お参りついてきた魂が成仏に上がる様子が描かれています。
写真は、熊野速玉大社の参詣曼荼羅です。
たとえば四国遍路の先達のように、規定を満たせば誰もができる、という職業ではありません。
もちろんそういう団体があるわけでもなく、また私がいつもお世話になっている先達は、自らを「凡夫」として市井の暮らしを営みながら、「先達」という家系の仕事をされています。
そのため、熊野詣の参詣曼荼羅に残っている平安時代から続く「先達」という仕事も、今の時代においては、広く一般に知られているわけではありません。
けれど、今の私たち「普通の人」がいつの頃からか絶たれてしまった祈り、それは、昔の人々が連綿と成してきた祈り
ご神仏を前に、欲しいものを欲しいといい、願い、祈る
この当たり前のことが誰でもできるようにと、活動をされています。
具体的にいうと、「普通の人」を神社仏閣といわれる聖地に案内し、そこにお祀りされているご神仏のことを教えてくださるわけですが……
たとえば、神社仏閣でお祀りされているご神仏が
「どのような方で」
「どのようなご修行をされている方なのか」
同じ「名前」の方でも、お祀りされている神社仏閣の役割や地域によって、そのご神仏のお役割も変わるため、毎回、丁寧に説明くださり、分かりやすく、そして面白く教えてくださいます。
先達はおっしゃいます。
そうしてご神仏のことを知れば、その方々の前で何を願えばいいのか、どうやって手を合わせ祈ればいいのかが分かるようになるから、そしたら、「普通の人」が当たり前のように、ご神仏を前に、欲しいものを欲しいといい、願い、祈れるから
と。
どうにかしようとしても、どうにもならないことはあって……
そういうときに頼れる「見えない力」があることを知っていて、その佇まいに会いに行くことができ、手を合わせられることが、どれだけ心強いことか。
けれども、その「見えない力」とは、決して、棚から牡丹餅のようなミラクルが降ってくる、という意味ではなくて、「見えない力」はとても小さな声だから、それを聞こうとする努力、その声を拾いあげる感性を養う努力、自ら動く努力、があってこその頼れる「見えない力」なのだとも、教えてくださいます。
ときにそれが厳しく感じることがあるかもしれません。
けれど「見えないもの」との関りは「なんでもあり」にできる世界であるだけに、こちらは慎重になりたいところですし、なにより憑依されるのだけはまっぴらごめんなわけです。
そして、それを知っていてくださるからこそ、いつも、面白おかしく、真面目に、細やかな心配りとともにご案内くださる先達です。
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